「広島被爆米兵の名前を刻んだ日本人歴史家」オバマ大統領とハグした方はとてつもない御仁でした

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まさに「至誠、天に通ず」という言葉が当てはまる素晴らしい話です。

オバマ大統領が現職米大統領として初めて広島を訪問しました。

その時にオバマ大統領とハグした方がとてつもない御仁でした。



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オバマ大統領がハグをした森重昭さんは、

原爆で亡くなった12名の米軍捕虜の原爆犠牲者登録に尽力し、

Googleもない時代にアメリカの遺族に情報を伝え

彼らを追悼し続ける素晴らしい方でした。

 

40年もの間、森重昭さんは広島で原子爆弾の犠牲になった14万人余りの人々に含まれていた

被爆米兵捕虜12人の記録の断片を紡ぎ合わせてきた。

政府機関のおざなりな対応や声をひそめたような批判にもかかわらずだ。

 

森重昭さん「舞い上がって覚えてない。」と言っています。
それほどのことがあったんですよ。

広島被爆米兵の名前を刻んだ日本の歴史家

今年79歳になる森さんは彼自身も被爆者です。

労を惜しまずに積み重ねてきた彼の偉業は図らずも被爆米兵ノーマン・ブリセットの親友が

自分の大叔父だという米国人映画監督の目に留まるまでは、

ほとんど知られることはなかった。

 

「この真実を突き止める活動の軌跡は、人の心を動かさずにはいられないことは分かっていました」

とバリー・フレシェット監督は言う。

 

しかし、この映画がかかわる人々の人生を

根こそぎ変えることになるとはゆめゆめ思わなかった。

 
「森さんは、40年の歳月をかけて被爆米兵の謎を読み解いてきました。

史実を大切にする彼にとっては、些細な細部の歴史的な発見が大変重要だったのです」と監督は語った。

「12人の飛行士に敬意を表し、人々の記憶にとどめ、

遺族に何が起こったかを伝えたかった。彼はそれをやり遂げたのです」

撃墜された米兵たち―その運命

2人が出遭う運命は、フレシェット監督が生まれるずっと前、

陸軍B24爆撃機さらに2機の海軍戦闘機が、

1945年7月末に日本の巡洋艦を爆撃中に撃ち落とされた時から、既に始まっていた。

撃墜された爆撃機の乗組員全員が生き残ったわけではないが、

パラシュートで助かった13人は至近都市である広島の中国憲兵隊司令部に護送された。

その後、トーマス・カートライト中尉は尋問のために東京に送られた。

この運命のいたずらがカートライト中尉の命を救うことになる。

1945年8月6日の朝8時15分に原爆が広島の空でさく裂したとき、

米兵捕虜が拘留されていた憲兵隊司令部は爆心地から400メートルも離れていなかった。

 

9人の米兵捕虜は、即死だったと言われている。

シアトルのヒュー・アトキンソン軍曹だけは奇跡的に原爆のさく裂の中生き残ったことが認められているが、

翌日には放射線障害で亡くなったらしい。

 

一方、ラルフ・ニール軍曹とノーマン・ブリセット三等兵曹の2人は、

原爆が600メートル上空で炸裂する少し前に、尋問のため少し離れた市内の宇品(うじな)に連れて行かれた。

とはいえ、2人も原爆の影響を免れることはできなかった。

日本人の医者による手当てと治療の甲斐もなく、

13日後に放射線障害により亡くなり宇品憲兵隊員の手で埋葬された。

 

3日後、8月9日には、2つ目の原爆が長崎に落とされ日本はついに8月15日に降伏した。

 

世界初の原爆、投下後の混乱

終戦前後の混乱期、米軍部は広島で拘留されていた捕虜がどのようになったか知るよしもなかった。

家族には行方不明だと伝えるのが精一杯だった。

家族が生存の望みを諦めた後も、長い間の問い掛けに対しても、通り一遍の返答が続いた。

そして1983年なってやっと米政府は渋々と米兵捕虜が広島で原爆の犠牲になったことを認めた。

 

1945年当時8歳だった森さんも故郷を飲み込んだ爆炎の中で九死に一生を得た。

 

「爆発時は、爆心地から2.5キロメートル北西の学校近くの丘にいました」と当時を思い出す。

「爆風で小川に飛ばされ、気が付いたらきのこ雲の中にいたのです。

あまりにも暗くて、10センチメートル前の自分の指先を見ようとしても真っ暗で見えないほどでした」

「さく裂は信じられない強さで、周りの家や、樹木、そこら中にあるものを空に向かって巻上げていったのです。地球が爆発したのかと思ったほどでした」と森さんは言った。

 

「自分が無事だったのは、まるで奇跡です」

 

戦後は、森さんも復興とともに彼自身の人生の再構築に励んだ。

学校で特に歴史が得意で成績も抜きんでていたという森さんは、

歴史学の教授になりたいという夢をもちながらも、大学卒業後は大手証券会社、

その後、楽器メーカー・ヤマハを定年まで勤め上げた。リサーチには週末を当てたという。

アマチュア歴史家としての使命を見出す

それでも森さんの歴史への飽くなき興味と研究への情熱がついえることは無かった。

38歳の時、終戦間際に米戦闘機が伊陸(いかち)村(現在山口県柳井市)近くの山に墜落したと近所で耳にした。

 

「そこで、私は実際に墜落現場に行き、農夫たちに話を聞いてみたところ、みんなが墜落を知っていたました。そして墜落した現場に私を連れて行ってくれたのです」

森さんが現場で目にしたのは爆撃機「ロンサム・レディー号」の残骸だった。

その後、何年もの研究を通じて、乗組員の詳細や、彼らが広島の憲兵隊司令部に連れて行かれたことを突き止めた。

また、その後に撃ち落とされた米爆撃機の乗組員3人も、捕虜に加えられたことも判明した。

しかし森さんにとっては、名前を調べるだけでは十分ではなかった。

できれば何とか遺族を探し出して、自分の突き止めた情報を伝えたいと思った。

政府機関は、ほとんど当てにならなかったので、

まず、亡くなった米兵のファミリーネームを探し出して、同姓の米国人を探すことからはじめた。

当時の国際電電公社オペレーターの通訳を通じて、

ワシントン州からファミリーネームの合致する人を探し始めた。

 

「しかし、調査は簡単ではありませんでした。私は、心臓が悪くて現地に行くことができず、米国は50州もあり、数千万もの人が住んでいるのですから」

「そして、死ぬまでに、何とかご遺族を探し出して、亡くなった米兵捕虜の写真と名前を平和祈念資料館に原爆犠牲者として登録しようと心に決めたのです」。

 

米兵捕虜の遺族とつながる

国際電話の請求書は月に7万円近くになることもあった。

調査は難航を極めた。

そんな時、ジェームズ・ライアンの兄、フランシス・ライアンに行き当たったのだ。

 

「被爆米兵の名前を初めて平和祈念資料館に登録できたときには、思わず涙が出ました」と森さんは当時を思い出した。「誰にも言われたわけでもないし、誰も手伝ってくれなかった。みんな上手くいかないと思っていたけれども、私は何としてもやり遂げようと思っていました」

フランシス・ライアンから出撃前の乗組員の写真を含む新たな情報を受け取り、

ロンサム・レディ号元機長カートライト中尉を探し出すことができ、

その後20年以上の友情をあたためた。

カートライト氏が、昨年亡くなるまでに交わした手紙は、100通を超えるという。

 

「広島には、原爆で亡くなった人のために数十個の慰霊碑があるのですが、亡くなった米兵捕虜のためのものが一つもありませんでした」と森さんは言う。「私は、奇しくも生き残りました。ですから何としても、遺族を探し出して、愛する人の最後についてお伝えしようと、そう心に誓ったのです」。

 

1999年、森さんは、12人の被爆米兵捕虜の銅製記念碑を中国憲兵隊司令部の跡地に建てた。

2012年の広島原爆記念日には、1945年に原爆投下を命じたハリー・トルーマン大統領の孫、

クリフトン・トルーマン・ダニエルさんと一緒にこの記念碑を訪問し、献花をして弔意を表した。

徐々に森さんの努力は報われるようになり、メリーランド州の米国州立国会図書館の膨大な資料も含め、

山のような資料から、遂に12人の被爆米兵の遺族全員を探し出した。

 

森さんは、広島で被爆した12人目の米兵を突き止め、

目的が達成されたかのように思われるが、決して研究の手を休めたわけではない。

今は、2度目に長崎に落とされた原爆の犠牲となった英国とオランダ捕虜の遺族の行方を捜している。

 

森さんの献身が映画監督の心を動かした

被爆米兵ノーマン・ブリセットの遺族は森さんがさまざまな情報を届けてくれたことに心から感謝している。

ノーマンの学生時代からの親友エディ・シャンドネは、甥のバリー・フレシェット監督に、

やっと60年前に何が起こったかが分り家族が喜んでいると伝えた。

 

フレシェット監督は、「遺族がまとめたノーマンの本を手にして、即座に引き込まれた」と言う。

「この話は、広島で被爆した12人の米兵の物語です。

しかし、私たちはほとんど何も知らない。

そのことが私には何とも奇妙に思えたのです。

だから、このストーリーを語らずにはいられなかったのです」と監督は言った。

 

監督は、2013年の春に初めて森さんに連絡をとった。

そして翌年の2月には、本に書いてあることが本当か、

自分の眼で確かめるために単身で来日した。

 

「森さんの家に行き、応接間に入ると、一人ひとりの乗組員に関する書類が

ピアノやコーヒーテーブルの上に、ところ狭しと置かれていました。

森さんは、それぞれの乗組員について驚くほど正確にご存知でした。

結婚しているかどうか、子供がいるか、出身地や搭乗していた機体の名前まで…。

その後、直観で、誰かがこの活動を伝えなくてはいけないと思ったのです」と監督は言った。

「実際、まさか、マサチューセッツ州のローウェル(ノーマン・ブリセットの出身地)の住人より

ノーマンのことを良く知っている人に日本で出会うなんて夢にも思いませんでした」

 

フレシェット監督は、この2年間、ドキュメンタリー・フィルムの制作に力を注ぎ、

ノーマン・ブリセットの姪にあたるスーザン・ブリセット・アーキンスキーさんや、

亡くなった叔父の名前を引き継いだ甥のラルフ・ニールさんと共に来日した。

 

遺族と森さんとの出会いは、当然のように感極まるものとなり、

フレシェット監督の60分の映画『灯篭流し(Paper Lanterns)』のクライマックスとなった。

映画は、それぞれの米兵とその遺族、

そして彼らのバラバラとなったパズルのピースをつなぎ合わせた日本人の歴史家の物語となった。

 

「この3年間、この映画プロジェクトの制作は、はっきりいって楽ではありませんでした。

でも、頑張った甲斐はありました」と監督は言った。

「今や、遺族のみんなや関係者は、まるで一つの家族のようで、世界がとても小さく身近に感じられます。

私にとって森さんの偉業を人々に知ってもらうことは、とても大切です。彼は、稀有な人なのです」

 

森さんは、映画の最後に語っている。

「これが、戦争なのですよ。だから戦争をしてはいけないのです。

戦争は絶対にしちゃいけないという結論を学びました。

今後とも世界が平和であることを祈りましょう」と。


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